1991年、東京クリエイティブクラブ発行のアンソロジー「TOKYO RAIN」(自費出版)に収録
山手線の各駅を舞台に、6名が数駅ずつ分担して物語を書いたのである。
20年前、素人が出した同人誌的アンソロジーだったが、その頃かいていた六人のうち、四人が何らかの形で商業出版をするまでになっている。今思うと、なかなかレベルが高かったのかもしれない。
五編書いた内の一編である。一部分加筆訂正をしている。
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年齢売買商会 田町支店
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「まったく露骨なもんだな」
R氏は傘を傾け、その看板を見上げながら溜息をつくように言ったものだ。
彼はそのまま向かい側の喫茶店に入っていった。まだ、人影も疎ら時間だった。
R氏が座った席からは、「露骨」といった「年齢商会」の入っているビルの正面が見えた。
十階建てのそのビルには他に「メイナム商事(株)」と「(株)伊藤佐藤工務」が入っているが、三階より上は全て「年齢売買商会」のものだった。だからそこに出入りする人はほとんど「年齢売買商会」の会社員か、その客ということになる。さらに「メイナム」の社員は、必ず(といっていいほど)真っ青な会社の封筒を小脇に抱えているし、「伊藤佐藤工務」の社員は、作業服と背広を足して三で割ったような制服を着て出社してくるので、「年齢売買商会」の社員や客を見分けるのはたやすいことだった。
R氏は腰を下ろすと同時に出てきたモーニングセットをほおばり、口許についたパン屑を時々払いながら、ぼんやりとそのビルを眺めていた。
R氏は、何もその「商会」を見張っているわけではなかった。雨の向こうに見えるビルの看板と、そこに出入りする人の群れをただ見ているだけだった。
R氏が「商会」にやってきたのは、三ヶ月も前のことだ。この支店のことが雑誌で取り上げられていたので、どんなものかと思ってきたのだった。
その日は同じように思ってきた人達が、警察官が交通整理をするほどビルの前に集まっていた。
年齢を売り買いするという途方もないことが本当にできるのか、それを信じることができるのか、R氏は懐疑的だった。
ビルの前の群衆は、「商会」の社員によって手際よく集められ、順番にビルの中の会議室で説明を受けることになった。
R氏は他の数十人と一緒に、少し大きめの会議室に入れられた。R氏と同じくらいの年齢人もいれば、売るほどの年もないような子供までいた。彼らは概ね真面目にその説明を受けていた。
社員は大げさでも、難解な用語を使うこともなく、実に淡々と事務的に年齢売買のシステムを説明していった。
その場で、さっそく売買の申し込みがなされ、売りに出された歳は、計千五百歳にもなったという。しかし、買い注文はわずか百歳分にも満たなかったという。
売りに出された年齢は、一年間「商会」で預かる。いったん売ったものの、やはりと思い直した時のためだ。買った歳も同じに、一年以内なら売り戻せる。
歳を売ったものは、売った年齢分若返り、買ったものはその年齢分の経験が増す。もちろん、売買される年齢は精神的なものだけではなく、肉体的年齢も伴う。肉体だけの別売り、別買いはなしである。
年齢を売った者は、その年齢分の記憶も失う。買った者は、誰とはわからない記憶を背負うことになる。
だから、「売り」は多くても、「買い」は当然少ない。しかし、「商会」は不思議なことに成り立っていた。
R氏はその日から、毎日「商会」の向かいの喫茶店で、朝から夕方まで十杯以上のコーヒーと水を頼み、ただただ出入りする人たちを見つめるようになった。
流れるように行き交う人の群れを見ながら、R氏は思うのだった。思い返せば何もない三十年だった、と。
長年勤めた会社も、結局課長で終わった。大きな成功もなければ失敗もない。可もなく不可もなく過ごした。そして残ったものは何もなかった。家庭生活もそうだ。見合いで結婚した妻は美人でもひどく醜くもなかった。淡々とした日常があっただけだった。そして、子どもも残さずに、五年前に他界してしまった。何もなかった人生だ。そう思うととても辛かった。
夕暮れが迫り、降り止まぬ雨の中人々の足が速まりはじめた頃、R氏は喫茶店を出て、「商会」のビルの中に入っていった。
受付で名前と要件を告げる。係員が「売り方」と書かれた部屋に案内してくれた。
部屋の中には、白衣を着た若い男がコンピューターのディスプレイを見ていた。R氏がその男の前の椅子に腰を下ろすと、男はにこやかな笑みを浮かべながら振り返った。
「お久しぶりですね。いかがですか」 男はにこやかな顔のまま言ったものだ。
「何もなかったじゃないですか」 R氏は少しムッとしてにこやかな顔に向かって言った。
「そんなものですよ。
今日はこの間、買われた三十歳分の売り戻しですね。預かり期間はなしでいいですね。
新たに買いますか三十年ほど」
「いや、次に来るのは、三十年後にしておくよ」
と、R氏は少し笑いながら言ったものだ。