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2005.06.15

ディベートを酸っぱい葡萄にしないためには

ディベートの誤解を解くためにできることはなにだろう(まだ夢だけど)


ディベートは、まだまだ誤解されている
誤解を解くためにには、ディベートを学んだ人が優れた議論をすることだ。
優れた議論をする人を見て、人はこう思うだろう「どうやってあれほど素晴らし議論ができるのだろう」
「やっぱりディベートをやっていると優れた議論ができるようになるんだ」とかとか。

ディベートが誤解されていることには、曽根さんや倉島さんが書かれたとおり、
優れたディベートの試合や講習に接する機会がないためでもあるだろう。

しかし、何も知らない人がいきなり試合を見たり、記録を読んだりはしない。と思う。
仮に見たり、読んだりしたとしても、十分に理解できるだろうか?

ルールもわからないゲームを見ても、何が何だかわからないものだ。
将棋のルールもわからずに棋譜を見ても楽しめない。
将棋なら非日常的なことだから、「なかなかわからないなぁ」とわからないことにあきらめもつくだろう。
あるいは、どうなっているのかと将棋を知りたくなるかもしれない。

ディベートがやっかいなのは、日常の言葉と変わらないのに、よくわからない状態になることなのだ。
日常語で議論しているのに、わからないのは、(ルールを知らない)自分ではなく、
ディベートをしている人たちだ。と(イソップの寓話のように)酸っぱい葡萄化してしまうのではないだろうか。

ディベートを酸っぱい葡萄にしないためには、ディベートに興味を持ち、
意欲的に学ぼうという気にさせる、ことではないか。

一般の人にディベートへの興味と意欲を喚起するには、
ディベートの成果をまざまざと見せつけるのがいい。
例えば、ダイエット商品のように、これで何十キロも痩せました、
と使用前後の写真があると、なんだか効きそうと思ってしまうように。
ディベートの成果は、多々種々あるけれど、見た目にわかるのはやはり議論をする姿だろう。
ディベートの試合ではなく(試合を見せても上記の通り、わからない、酸っぱい葡萄になるだろうから)、
実際の議論だ。例えば、国会の論戦とか、テレビの討論番組などなど。
ディベート甲子園出身の国会議員が、鮮やかな議論を展開するとか、テレビで鋭い論評をするとか。
見ていた人が「素晴らしい議論ができるのは、なぜなのだ」とか思わせればしめたもの。
そこで、「私は長年ディベートをしてきたのです」となれば、ディベートへの関心も興味も湧くのではないか。

ディベートの成果を他で見せることで、ディベートへの興味をかき立てたことは、多少ならある。
議論を見せたのではないのだけれど。
プレゼンテーション研修でのことだ。
プレゼンテーション研修では、講師は受講者のプレゼンテーションを見て、
その場でコメントやアドバイスをしたり、さらには改善例を示したりする。
このとき、ディベートで培ったメモを取る技術や相手の議論を正確に理解する、
素早く議論を組み立てプレゼンテーションするという技術が役に立つ。
受講者のプレゼンテーションが終わったらすかさず
「今のプレゼンテーションは、本当は○○がいいたかったのでは、それならこのように組み直してみましょう。~~」と
プレゼンテーションをメモを見ながら再現し、修正したプレゼンテーションをすぐにやってみせるのだ。
すると、受講者は驚くことが多い、
「どうして、そんなこと(メモを取り、再現し、修正したりすること)ができるのですか?」と
そこで私は、「ディベートをしているおかげですね」というのだ。
それで受講した人は、「私もディベートをしてみようかな」となったりする。

私のプレゼンテーション研修を受けた人がすべてディベートに興味を持ったとしても、
一年で数百人、10年経っても万の単位にはいかない。

なので、大きなマス媒体で活躍するディベーターがほしいところだ。

――しかし、ディベートは素晴らしい教育方法だ、と自らディベートを指導していながら、
ディベートとはかけ離れたことを書き続けている人もいる
困ったものである。――

ディベート甲子園出身者も、まだ社会では中堅になったかならないかくらいだろう。
はやく社会の中で活躍して、本当のディベートの成果を見せつけてほしい。
ディベートは素晴らしいものなのだなあ、と思わせてほしいのである。

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コメント

10年たって、ディベートへの誤解は少なくなったように思います。
日本語・英語によるディベート大会も盛んになり、一般に膾炙したと思えます。

投稿: | 2015.02.13 13:16

こんにちは。

質問です。
この記事が書かれて約10年が過ぎましたが、現在までにどのような取り組みがなされ、またどのような変化があったのでしょうか?

投稿: | 2015.02.12 19:47

 おっしゃるようにディベートに対する誤解を解くには、ディベートの経験者が社会で活躍して、世間から「あの人の優れた知性はディベートのたまもの。ディベートは素晴らしい」と言われればしめたものですよね。

 私も西部先生と同様の方法でさりげなくディベートの宣伝をしたことがあります。ある社会人向け講座でスピーチを行ったところ、「高橋さんのお話って理路整然としていますね。」と言われたので、「この話し方はディベートを通じて学んだものです。」と申し上げたことがあります。

 ところで、「あの団体」のリンクを貼って大丈夫でしょうか?「あの団体」の関係者がたまたまこのブログをご覧になって、先生が罵倒されないか心配です。

投稿: 高橋 | 2005.06.15 12:59

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