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2017.03.10

●書評とかは性に合わないのかもしれないと思ったこと

「う~む、コメントは書けないな……」
わたしは、Facebookの書き込みを読みながら唸っていた。
ある作品の感想がアップされていた。

自分が好きだなあと思ったりとか、とっても感動した、というときは、
他にも同じように好きとか、感動したという書き込みを読みたくなる。

自分の感覚を確かめたくなるのだろうか。

しかし、時として、いや往々にして、自分が好きな作家や作品や映画やなんやかやが、
「面白くない」
「どう読めば(観れば)面白くなるの?」
とかいう感想に出会ってしまう。
出会いたくなかったけれど。

そのような感想を読むと

A:わたしは間違っているのだろうか? 面白くないものを無理に面白いと感じているのではないか。
という懐疑に襲われるか、

B:あの作家、作品を、あるいはあの映画を面白くないとか、詰まらないとか、そうでもなかったなあ、という奴らは、みんな○○なんだ。○○を○○できないことのは、$%%&&だ。
と罵るか、
だったのだが、

近頃は、
C:まあ、そう見方もあるよな。読み方も、捉え方もある。そういうのはわかるけれどもね……。
と寂しく笑うようになった。

多様な見方があることは、面白い。
新たな発見という、驚きもある。
新鮮だなあ、と感慨深いものもある。

異なる見方、考え方をする人と話をするのは楽しいこともある。
も、あるだ。

例えば、村上春樹である。
わたしは村上春樹が好きだ。もう、大好きだ。
しかし、村上春樹が嫌い! という人もいる。
それはそれで仕方のないことだ。
村上春樹は新垣結衣ではないのだから……(この喩えにはいくぶんかの無理を感じるけれど、私はガッキーが好きなのだからしようがない)

村上春樹を好きでない人は、
なぜか、声高に、村上作品を貶めるような書き方をする(ことが多いように思う)
曰く「戯れ言を有り難がるようなものだ」「年少向けの物語に過ぎない」などなど、
何か、このそこに悪意を感じてしまうのだ。
そのような人とはあまり話をしたくはない。

嫌いでも、面白いと感じなかったとしても、作り手、送り手に対する敬意とか
自分が嫌いなものでも好きとする人や、面白いと思う人への共感的理解ができない人とは
敬して遠ざけたくなるのである。

悪意に汚染されたくないのだ。

もうすぐ還暦だし、狷介といわれてもいいや。

ということで、
「ラ・ラ・ランド」をもう一度観に行こうかな。
だって、ラ・ラ・ランド 大好きなんだもの。

それと、「シング」鑑賞会しよう。
参加の方は、こっそりメールを下さい。前売り券を2枚買ってしまったし。

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